コペル君。
君が急にナポレオン崇拝者になったので、叔父さんはびっくりしたが、話を聞いてみると、これは水谷君の姉さんの影響らしいね。-ナポレオンの一生は、たしかにすばらしい一生だった。その生涯のはなばなしさにかけたら、長い人類の歴史にも、これほどの人はめずらしい。君たちばかりではない、世界中どこへいっても、ナポレオンに感心している少年が、今でもずいぶんたくさんある。どこの国でも、ナポレオンの伝記の売れ行きは、いまだに止まないのだ。ところで、僕は、いつだったか君に向かって、何か心を打たれたことがあったら、よくそれを思いかえしてみて、その意味を考えるようにしたまえ、といったことがあるね。では、今晩は、なぜナポレオンの一生が僕たちを感動させるのか、それを一つ君といっしょに考えてみることにしよう。
第一に、ナポレオンの生涯を見て、僕たちが驚嘆するのは、その目覚ましい活動だ。-ナポレオンのお父さんやお母さんは、コルシカ島の落ちぶれた貴族で、ナポレオンは貧しい境遇に育った。ちょうど君たちぐらいの年には、両親のもとを離れて、フランス本国の士官学校に入れられていたが、同級生には金持ちの貴族の子が多く、彼はいつも仲間から軽蔑されて、寂しくひとりぼっちになっていた。「学校を出て、隊付きの将校になった少尉中尉の時代にも、相変わらず貧乏で、青年らしい楽しみを追うことなんか、とてもできなかった。はなやかな集まりから遠ざかって、ひとりコッコッと勉強している、蒼白い顔をした、陰気な青年将校だった。
ところが、二十四の年に、フランス革命の大動乱が起こると共に、この見すぼらしい貧乏将校が、ひとっとびに少将になってしまった。人民軍がトゥーロンの要塞を攻め落としたとき、この青年将校がすばらしい働きをして、手柄をたてたからだった。
それからが、君たちも知っている、あの有名なアルプス越えだ。武装もととのっていなければ、訓練もよくできていないボロボロの軍隊を率い、突然アルプスを越えて、なだれのようにイタリーの平原に侵入したかと思うと、たちまち、オーストリアの大軍を撃破し、つづいて、イタリーの都市を片っぱしから攻め落としていった。どこへいっても、勝利、勝利、勝利だ。たくさんの戦利品をもってパリに帰ってきたときには、パリ中の人気を一身に集めて、もう立派な凱旋将軍になっていた。
その頃、フランスは大革命の後で、政治上の争いが年ごとに激しくなり、不安がいつまでも去らなかった。そして、フランスの人民は、国内の秩序と平和とを、衷心から求めはじめていた。ナポレオンは、この機運に乗じて、武力で政府の組織を改め、次第に権力を自分の手に集めていった。
最初は、三人の執政官の中の一人となり、次いで終身の執政官となり、とうとうしまいにはフランスの共和制をやめて、自ら皇帝の位にのぼってしまった。
コペル君!このときナポレオンがいくつだったと思う。三十五歳だったのだ。だから、わずか十年の間に、かえり見る人もなかった貧乏将校の境遇から皇帝の位まで、一息に駆けのぼってしまったというわけだ。こんな目覚ましい出世が、ほかにあるものじゃあない。
皇帝になってからも、ナポレオンはまだまだ日の出の勢いだった。ヨーロッパの諸国は、イギリスを中心として同盟を結び、何回となくナポレオンを倒そうとしたのだけれど、それはみんな失敗に終わってしまった。戦争をしかければしかけるほど、軍人としてのナポレオンの天才が発揮されるばかりで、アウステルリッツでも、イェーナーでも、またワグラムでも、ナポレオンは長く戦史に残るような見事な勝利を続けていった。
オランダは早くからナポレオンに服していたが、いまや、イタリー半島もナポレオンの支配のもとにつき、ドイツもナポレオンの権力に屈服し、スペインも彼の勢力に従うことになった。こうして、一時、ヨーロッパ大陸は、東のロシアを除くほか、ことごとくナポレオンの威令に服従することになってしまったんだ。
千八百八年、ナポレオンがエルフルトで全欧会議を開いたときには、ドイツからは四人の国王と三十四人の王侯とが、ナポレオンに挨拶するために集まってきた。ナポレオンは、そういう王様たちにかこまれて、わざわざフランスからつれてきた名優タルマの芝居を見物したりした。このときナポレオンは、まったく文字どおり王様の中の王様だった。
こうして、ヨーロッパ大陸に住む何千万の人間の運命が、たった一人のナポレオンの意志で勝手に左右されるほどの、すばらしい全盛時代がやってきた。ナポレオンは権勢の絶頂にのぼりつめた。
しかし、彼はわずか数年でこの絶頂から、たちまちに破滅の底に落ちこんでいった。そして、その没落のきっかけとなったものは、君たちも知っている、あのロシア大遠征の失敗だった。
いったい、なぜ、ナポレオンがロシアを攻めに出かけていったのかというと、それは、ロシアがナポレオンの命令をきかないで、イギリスとの通商をやめないからだった。イギリスは、ヨーロッパ大陸から離れた島国であることを頼みとして、少しもナポレオンの権力と妥協せず、最初から最後まで彼に敵対しつづけた国だ。ナポレオンはこのイギリスを困らせるために、ヨーロッパ大陸とイギリスとの通商を厳禁してしまったが、これは元来無理なことだったので、どうしても成功しない。とうとうナポレオンは腹を立てて、大仕掛けなロシア遠征を企てたのだった。―これは、ご存じのとおり惨憺たる失敗に終わった。戦いには大勝利を占め、ロシアの首府モスクワまで占領したのだけれど、さすがのナポレオンも、酷寒と糧食の欠乏とには勝てないで、とうとう退却を開始せねばならなかった。
雪と氷の中を餓えに苦しみながら退却してくる途中で、何十万という兵士たちは空しく凍え死んでいった。凍え死なないものも、コサックの追撃にあって殺されていった。そして、最初ロシアに侵入したときには六十万以上もあった大軍が、帰りには、ロシアの国境を越えた者が一万にも満たないという、悲惨極まる有様になっていた。この大失敗がヨーロッパ中に伝わると、まず第一に武器を取って立ちあがったのは、長い間ナポレオンの圧迫をはねのけようとして、その機会をねらっていたプロシャだった。つづいて他の諸国もいっせいにナポレオンに反抗し、またも同盟を結んで、フランスに攻めよせてきた。
そして、ナポレオンにも、とうとう滅亡の時がまわってきた。今度ばかりは、ナポレオンもこの連合軍に勝つことができず、戦いに敗れて捕えられ、エルバ島に流されてしまった。
その後、いったんエルバ島から脱出し、もう一度兵を集めて、有名なウォーターローの戦いで最後の決戦を試みたけれど、これも敗北に終わり、ついにアフリカの西のセント・ヘレナという離れ小島に、囚人同様に監禁されることになってしまった。
気候の悪いその島で、五年半、不自由な暮らしをしたのち、彼は寂しくそこで死んでいった。