君は浦川君のうちを訪問して、浦川君のうちと、君たちのうちとの相違を知った。浦川君のうちが、君たちのうちに比べて、貧しいということを知った。
しかし、世間には、浦川君のうちだけの暮らしもできない人が、驚くほどたくさんあるのだよ。その人たちから見ると、浦川君のうちだって、まだまだ貧乏とはいえない。そう聞くと、君はびっくりするだろうか。でも、現に浦川君のうちに若い衆となって勤めている人々を考えてみたまえ。あの人々は、何年か後に、せめて浦川君のうちぐらいな店がもてたらと、それを希望に働いているのだ。
浦川君のうちでは、貧しいといっても、息子を中学校にあげている。しかし、若い衆たちは、小学校だけで学校をやめなければならなかった。
また、浦川君の一家は、まだしも、お豆腐を作る機械を据えつけ、原料の大豆を買いこみ、若い衆を雇い、一種の家内工業を営んで暮らしを立てているけれど、若い衆たちは、自分の労力のほかに、なに一つ生計をたててゆくもとでをもっていない。一日中からだを働かせて、それで命をつないでいるのだ。
こういう人々が、万一、不治の病気にかかったり、再び働けないほどの大怪我をしたら、いったい、どうなることだろう。労力一つをたよりに生きている人たちにとっては、働けなくなるということは、餓死に迫られることではないか。
それだのに、残念な話だが今の世の中では、からだをこわしたら一番こまる人たちが、一番からだをこわしやすい境遇に生きているんだ。
粗悪な食物、不衛生な住居、それに毎日の仕事だって、翌日まで疲れを残さないようになどと、ぜいたくなことは言っていられない。毎日、毎日、追われるように働きつづけて生きてゆくのだ。
君は昨年の夏、お母さんや僕といっしょに房州にいったとき、両国の停車場を出てからしばらくの間、高架線の上から見おろす、本所区、城東区一帯の土地に、大小さまざまな煙突が林のように立ちならんで、もうもうと煙を吐き出していた光景を覚えているかしら。
暑い日だった。グラグラと目がくらむような夏の空の下に、隙間もなくびっしりと屋根が並んで、その間から突出ている無数の煙突は、はるかに地平線の方までつづいていた。熱い風が、その上を通って、汽車の中まで吹きこんできた。君は両国を出るとすぐ、もうアイスクリームがたべたいといい出したね。だが、東京の暑さがたまらなくなって、僕たちが房州に出かけて行ったあのとき、あの数知れない煙突の一本、一本の下に、それぞれ何十人、何百人という労働者が、汗を流し埃にまみれて働いていたんだ。
――それから、東京の街を出て、ひろびろとした青田を見渡すようになって、僕たちはやっと涼しい風を感じ、ホッと息をついた。しかし、考えてみれば、あの青々とした田んぼだって、避暑になんか行けないお百姓たちが、骨を折って作ったものなんだ。
また実際、汽車の窓から見ていると、ところどころ田んぼの中に、女の人までまじって、何人かのお百姓が、腰まで水にひたりながら、熱心に田の草を取っていたじゃあないか。
ああいう人たちがいる。ああいう人たちが、日本中どこにいっても、―いや、世界中どこにいっても、人口の大部分を占めているのだ。
あの人たちは、日常、どんなにいろいろな不自由を忍んでゆかなければならないことだろう。何もかも、足らないがちの暮らしで、病気の手当さえも十分にはできないんだ。
まして、人間の誇りである学芸を修めることも、優れた絵画や音楽を楽しむことも、あの人々には、しょせん叶わない望みとなっている。
―コペル君!君は『人間はどれだけの事をして来たか』という本を二冊も読んだから、人間が野獣同様な生活をしていた大昔から、何万年という長い年月、どんなに努力に努力をつづけて、とうとう今日の文明にたどりついたかという、輝かしい歴史を知っているはずだ。
しかし、その努力の賜物も、今日、人類の誰にでも与えられているわけじゃあないんだよ。「それはいけないことだ」と、君はいうに違いない。そうだ、たしかに間違ったことだ。人間であるからには、すべての人が人間らしく生きてゆけなくては嘘だ。そういう世の中でなくては嘘だ。このことは、真っ直ぐな心をもっている限り、誰にだって異議のないことなんだ。
だが、今のところ、どんなに僕たちが残念に思っても、世の中はまだそうなってはいない。人類は、進歩したといっても、まだ、そこまでは行きついていないのだ。そういうことは、すべて、これからの問題として残されているのだ。
そもそも、この世の中に貧困というものがあるために、どれほど痛ましい出来事が生まれてきているか。どんなに多くの人々が不幸に沈んでいるか。また、どんなに根深い争いが人間同志の間に生じてきているか。
僕は、いま仕合せに暮らしている君に、わざわざそれを話して聞かせようとは思わない。僕が説明しないでも、やがて大人になってゆくにつれて、君は、どうしてもそれを知らずにはいないだろう。
では、なぜ、これほど文明の進んだ世の中に、そんな厭なことがなお残っているのだろうか。なぜ、この世の中から、そういう不幸が除かれないでいるのだろうか。
このことも、君の年で、十分に正しく理解することは、まだむずかしい。大体のことは、『人生案内』の「社会」という部分を読めばわかるけれど、これについては、君がもっと大きくなって、こみ入った世の中の関係を十分に知り、思慮も熟したところで、正しい判断を見つけても、決して遅くはない。ただ、いまの君にしっかりとわかっていてもらいたいと思うことは、このような世の中で、君のようになんの妨げもなく勉強ができ、自分の才能を思うままに延ばしてゆけるということが、どんなにありがたいことか、ということだ。
コペル君!「ありがたい」という言葉によく気をつけてみたまえ。この言葉は、「感謝すべきことだ」とか、「お礼をいうだけの値打ちがある」とかという意味で使われているね。しかし、この言葉のもとの意味は、「そうあることがむずかしい」という意味だ。「めったにあることじゃあない」という意味だ。
自分の受けている仕合せが、めったにあることじゃあないと思えばこそ、われわれは、それに感謝する気持ちになる。それで、「ありがたい」という言葉が、「感謝すべきことだ」という意味になり、「ありがとう」といえば、お礼の心持ちをあらわすことになったんだ。
ところで、広い世の中を見渡して、その上で現在の君をふりかえって見たら、君の現在は、本当に言葉どおり「ありがたい」ことではないだろうか。
同じく小学校を卒業したからといって、誰も彼もが、君たちと同じように中学校にゆけるわけではない。また、同じく中学校に通っていても、浦川君のような家庭にいれば、うちの仕事のために、なんのかのと勉強の時間を割かなければならない。
それだのに君には、いま何一つ、勉強を妨げるものはないじゃあないか。人類が何万年の努力を以って積みあげたものは、どれでも、君の勉強次第で自由に取れるのだ。
そうとすればいや、この先は、もう言わないでも、君にはよくわかっているね。君のような恵まれた立場にいる人が、どんなことをしなければならないか、どういう心掛けで生きてゆくのが本当か、それは、僕から言われないだって、ちゃんとわかるはずだ。
君のなくなったお父さんといっしょに、また、君に一生の希望をかけているお母さんといっしょに、僕は心から願っている――君がぐんぐんと才能を延ばしていって、世の中のために本当に役に立つ人になってくれることを!たのむよ、コペル君!