コペル君。昨日、君が興奮して話してくれた「油揚事件」は、僕にもたいへん面白かった。君が、北見君の肩をもち、浦川君に同情しているのを聞いて、あたりまえなことだけど、僕はやっぱりうれしかった。まあ、かりに君が山口君の仲間で、叱られて出てきた山口君といっしょに、コソコソと運動場の隅に逃げていったのだとしてみたまえ。お母さんや僕は、どんなにやり切れないか知れやしない。「お母さんも僕も、君に、立派な人になってもらいたいと、心底から願っている。君の亡くなったお父さんの、最後の希望もそれだった。だから君が、卑劣なことや、下等なことや、ひねくれたことを憎んで、男らしい真っ直ぐな精神を尊敬しているのを見ると、なんといったらいいか、ホッと安心したような気持ちになるんだ。
君にはまだ話さなかったけれど、君のお父さんは、亡くなる三日前に僕をそばへ呼んで、君のことを頼むとおっしゃった。そして、君についての希望を僕に言いおいておかれた。「わたしは、あれに、立派な男になってもらいたいと思うよ。人間として立派なものにだね」この言葉を、僕は、ここにしっかりと書きとめておく。君は、これをおなかの中にちゃんとみこんで、決して忘れちゃあならない。僕も、この言葉だけは、おなかの底にグッと収めて、決して忘れまいと考えているんだ。
こうして、このノートブックに、いつか君に読んでもらうつもりで、いろんなことを書いておくのも、実は、お父さんのこの言葉があるからなんだ。
君も、もうそろそろ、世の中や人間の一生について、ときどき本気になって考えるようになった。だから僕も、そういう事柄については、もう冗談半分でなしに、まじめに君に話した方がいいと思う。こういうことについて、立派な考えをもたずに、立派な人間になることはできないのだから。そうはいっても、「世の中とはこういうものだ。その中に人間が生きているということには、こういう意味があるのだ」などと、一口に君に説明することは、誰にだってできやしない。よし、説明することのできる人があったとしても、このことだけは、ただ説明を。聞いて、ああそうかと、すぐに呑みこめるものじゃあないのだ。
英語や、幾何や、代数なら、僕でも君に教えることができる。しかし、人間が集まってこの世の中を作り、その中で一人一人が、それぞれ自分の一生をしょって生きてゆくということに、どれだけの意味があるのか、どれだけの値打ちがあるのか、ということになると、僕はもう君に教えることができない。それは、君がだんだん大人になってゆくにしがって、いや、大人になってからもまだまだ勉強して、自分で見つけてゆかなくてはならないことなのだ。
君は、水が酸素と水素からできていることは知ってるね。それが一と二との割合になっていることも、もちろん承知だ。こういうことは、言葉でそっくり説明することができるし、教室で実験を見ながら、ははあとうなずくことができる。
ところが、冷たい水の味がどんなものかということになると、もう、君自身が水を飲んでみないかぎり、どうしたって君にわからせることができない。誰がどんなに説明してみたところで、その本当の味は、飲んだことのある人でなければわかりっこないだろう。
同じように、生れつき目の見えない人には、赤とはどんな色か、なんとしても説明のしようがない。それは、その人の目があいて、実際に赤い色を見たときに、はじめてわかることなんだ。
――こういうことが、人生にはたくさんある。たとえば、絵や彫刻や音楽の面白さなども、味わってはじめて知ることで、すぐれた芸術に接したことのない人に、いくら説明したって、わからせることは到底できはしない。殊に、こういうものになると、ただ目や耳が普通に備わっているというだけでは足りなくて、それを味わうだけの、心の目、心の耳が開けなくてはならないんだ。しかも、そういう心の目や心の耳が開けるということも、実際に、すぐれた作品に接し、しみじみと心を打たれて、はじめてそうなるのだ。まして、人間としてこの世に生きているということが、どれだけ意味のあることなのか、それは、君が本当に人間らしく生きてみて、その間にしっくりと胸に感じとらなければならないことで、はたからは、どんな偉い人をつれてきたって、とても教えこめるものじゃあない。
むろん昔から、こういうことについて、深い知恵のこもった言葉を残しておいてくれた、偉い哲学者や坊さんはたくさんある。今だって、本当の文学者、本当の思想家といえるほどの人は、みんな人知れず、こういう問題について、ずいぶん痛ましいくらいな苦労を積んでいる。そうして、その作品や論文の中に、それぞれ自分の考えを注ぎこんでいる。たとえ、坊さんのようにお説教をしていないにしても、書いてあることの底には、ちゃんとそういう知恵がひそめてあるんだ。だから、君もこれから、だんだんにそういう書物を読み、立派な人々の思想を学んでゆかなければいけないんだが、しかし、それにしても最後の鍵は、ーコペル君、やっぱり君なのだ。君自身のほかにはないのだ。君自身が生きてみて、そこで感じたさまざまな思いをもとにして、はじめて、そういう偉い人たちの言葉の真実も理解することができるのだ。数学や科学を学ぶように、ただ書物を読んで、それだけで知るというわけには、決していかない。
だから、こういうことについてまず肝心なことは、いつでも自分が本当に感じたことや、真実心を動かされたことから出発して、その意味を考えてゆくことだと思う。君が何かしみじみと感じたり、心の底から思ったりしたことを、少しもゴマ化してはいけない。そうして、どういう場合に、どういう事について、どんな感じを受けたか、それをよく考えてみるのだ。
そうすると、ある時、ある所で、君がある感動を受けたという、くりかえすことのないただ一度の経験の中に、その時だけにとどまらない意味のあることがわかってくる。それが、本当の君の思想というものだ。
これは、むずかしい言葉でいいかえると、常に自分の体験から出発して正直に考えてゆけ、ということなんだが、このことは、コペル君!本当に大切なことなんだよ。ここにゴマ化しがあったら、どんなに偉そうなことを考えたり、言ったりしても、みんな嘘になってしまうんだ。